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学校法人日本医科大学

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法医学とは?


法医学と聞いて何を思い浮かべるだろうか?一般的にはあまりなじみのないこの分野において20年以上、教授として精力的に研究活動と社会貢献を実施しているのが日本医科大学法医学教室の大野曜吉(おおの・ようきち)教授だ。大野教授が率いる法医学教室には10人のスタッフが在籍しており、日本の法医学教室では類を見ない大所帯の体制である。

大野教授は1986年に沖縄で起きた「トリカブト事件」で、当時琉球大学法医学教室の助教授として行政解剖を担当し、その後警察からの鑑定委嘱の依頼を受け、数ある可能性の中から死因としてトリカブト毒を同定した著名な法医学者である。その後1992年に日本医科大学の主任教授として迎えられた。

では、そもそも法医学とはどのような学問なのであろうか?大野教授は以下のように語る。「法医学は臨床医学とも基礎医学とも違う、社会医学という分野に分類されます。つまり、患者さん個人ではなく法律に関係する社会問題を解決するために日々必要な研究活動や実務などを行う学問なのです」。

法律に関する社会問題は多岐にわたるが、法医学教室ではその中でも特に医学や自然科学の知識が必要な問題に対してその解決に協力し、同時に必要な研究を実施している。「法律的違反のなかで身体に対する加害があった場合、その被害者の状況から医学的な視点をもって協力出来ます。人が亡くなった後であっても法律が執行される段階で医学的な判断が必要な時もあります。われわれは、そのような社会的要求のなかで研究と司法解剖などの実務を通して社会に貢献しているのです」(大野教授)。

また大野教授はこのように語る。「医学部のほとんどの教室は扱う対象が患者さんですが、われわれは違います。あくまで法的な被害者に向いています。そのような意味では医学部の中でもわれわれは相当異質かもしれません。扱う範囲は病気にとどまらず非常に広い分野となります」。

たとえば、法医学が社会と関わる一例としてDNA鑑定による個人識別の研究がある。ある人間を他の人間と区別するにはどうしたらよいか?このことは素人的には一見単純明快に思えるが、法律的には大きな問題であり、戦前から続いている研究分野だ。「当初は血液型から始まり、血清型、血球酵素型の研究に発展し、1985年頃からはDNAによる個人識別が可能になりました。現在ではさらにDNAを構成する塩基に注目し、「一塩基多型(SNP)」によって個人を識別する方向に向かっています」(大野教授)。そして、その技術が研究レベルで確立された後には、警察の鑑識部門において実用化されるようになるという。「これまで、さまざまな技術が法医学分野の研究を経て開発され、司法の現場で実用化されてきました」と大野教授は語る。このように、法医学の研究テーマは、現実社会の具体的課題と密接に関係しているのだ。

それでは、法医学教室で行われているさまざまな研究活動を見ていこう。


法医学教室で行われている研究


1 急性薬毒物中毒分析

人間の死因としては、明らかに目に見える原因とそうではない原因があり、薬物の場合は後者に属し詳細な法医学的分析をしないと分からない。特に致死的な物質の場合は微量で死に至らしめることが可能となるため、それらに対して検査可能な体制を整備することは必須である。

そこで、「当教室の重要な研究テーマの一つとして、急性薬毒物中毒分析があります」と大野教授は話す。薬物分析については「元々は本学の高度救命救急センターの中毒分析をするということで始まり、最初は患者さんのアルコール濃度の測定から開始し、そこからさまざまな中毒について分析研究を進めてきました」(大野教授)という。

その後、90年代後半に青酸カリやヒ素、アジ化ナトリウムなどによる中毒事件が頻発し社会的要請も高まったことで国からの予算もつき、有機化合物の定性・定量を行う分析装置が学内に導入された。「GC-MSが整備されてからはわれわれの守備範囲がさらに広まりました。また、液体の分析を可能とするLC-MSも整備され、現在当教室は全国的にも高い薬毒物分析レベルを維持し、この分野での研究をリードしています」(大野教授)という。

全国の薬物分析研究におけるリーダー的役割を裏付けるのが法医学教室の充実したスタッフである。「通常、全国のほとんどの法医学教室では薬物分析のスタッフは多くても一人しかいません。むしろ一人もいない教室の方が多いのです。そのなかで、当教室は3人の薬物分析を専門とするスタッフを揃えており、それが大きな力になっています」(大野教授)。また、ソフト面だけではなく、分析機器などのハード面も、「さまざまな工夫をしながら良い分析機材を揃えてきました」と大野教授は話す。

薬毒物分析の具体的なプロセスとしては、「法医解剖試料の薬物検査や、高度救命救急センターに搬入された患者さんの生体試料からの中毒物質を迅速にスクリーニングし、定性・定量分析を実践しています。また、不法薬物・農薬・医薬品・自然毒・生体内異物などに関して、分析学的および薬・毒理学的な研究に取り組んでいます」(大野教授)。その結果として、この分野において全国的にも貴重な研究成果を多々得ているのだ。

2 アルコール代謝の研究

法医学教室ではアルコールの代謝と生体に及ぼす作用についての研究も精力的に行っている。アルコール(エタノール)を摂取すると肝臓で代謝されることは誰もが知っていることだが、その際に働く酵素がアルコール脱水素酵素(ADH)である(図2)。エタノールはADHによってアセトアルデヒドに変化するがアセトアルデヒドは毒性が強いため頭痛を起こしたり、血管を拡張し顔を赤くしたりする原因となる。

法医学教室ではこのADHのなかでも特にADH3(クラスIII)という酵素に注目し、分子生物学的手法や血中アルコール代謝動態研究から、その役割の解明に迫ってきた。たとえばマウスを用いた研究において、エタノールが代謝される過程で中心的な働きを行うADHのサブタイプが急性アルコール中毒時にはADH1からADH3へとシフトすることなどを突き止めた1)

また、図2のようにエタノールから作られたアセトアルデヒドはアルデヒド脱水素酵素(ALDH)によって酢酸に代謝されるが、法医学教室では、このALDH の活性が正常な被験者と低活性の被験者を対象に、飲酒状況とアルコール代謝の関係に関する研究も実施している。それによると、ビールもしくは焼酎を単独で飲酒する場合と食事と一緒に飲酒する場合を比較すると、それぞれの状況によって血液中のアルコール濃度が両被験者で有意な差を持って変わってくることが分かった 2)。また、図3のようにいずれの被験者でも食事と一緒に飲酒を行うと、飲酒単独に比べて血液中のアルコール濃度が明らかに下がることから、飲酒中の食事摂取はアルコールの影響を軽減することが明らかにされた。

3:NMRを用いた研究

また、法医学教室ではNMRを用いた研究も以前から実施している。NMRとは、核磁気共鳴のことで、一般的に知られているのはその応用として用いられるMRI(核磁気共鳴画像法)という画像検査法だ。一方、法医学教室ではNMRのスペクトルデータという指標を用いた法医学的応用研究として、薬毒物の分析・同定や代謝・病態の研究を実施している(図4)。たとえばNMRのスペクトルデータを用いることで、今後「死後経過時間」を推定することも可能になるかもしれない。

法医学教室の研究グループでは、実験用のラットをいくつかの異なる条件で実験した後に、死体の骨格筋と脳組織を採取し、それらの抽出物についてのNMRスペクトルデータを分析し数値化した。その後それを多変量解析したところ、スペクトルデータによる死後経過時間や死因の検索に有用な解析結果を得ることが出来たという(図5) 3)

このNMRを利用した研究は法医学分野以外においても大きな可能性を秘めており、今後は「病気の診断にも役に立つ可能性がある」(大野教授)という。現在の診断学のプロセスは、患者の血液を調べ、ある特定の物質の濃度が高いか低いかで病気の診断をつけることが多い。しかしNMR技術を用いると、仮に病気の原因となる特定の物質が同定出来ていなくても体が正常な状態と比べて差異があるかどうかが分かり、その結果、病気の特徴を捉えることにつながるのではないか、と期待されるのだ。

今後の法医学について


大野教授は、今後の法医学分野に関して以下のように語る。「全国的なレベルで法医学領域について考えると、わが国では死因究明システムの構築がまだ不十分だと言えます」(大野教授)。東京23区に限ると監察医務院で多くの解剖が実施でき、体制としては整っているが、関東全体ましてや日本全体となると施設も人材も不十分だという。またそのなかで法医学の将来を考えると、司法解剖が出来て、薬物分析も出来る環境の整備と医師の育成、それも単に解剖が出来るのではなく「犯罪性の中で、症状、死因など裁判の証言に耐えられるレベルの法医学的力量のある医師の教育育成が急務です」(大野教授)という。

 

大野教授によると、かつては薬学部でも裁判化学的な分野を研究する教室が存在していたが、現在の薬学部は研究の中心が「創薬」に移ってきているという。また警察でも人材育成を進めてはいるが、実務中心とならざるを得ないのが現状だ。そのため「研究、実務、教育が出来る人材の育成は医学部の役目だと思っています。その役目は大変ですが、どこかでやらなくてはこの分野の人材がいなくなってしまう」(大野教授)と強い使命感をもって語る。また人材育成だけではなく司法解剖を行う社会貢献のためにも「司法解剖が実施できる解剖室を本学にも設置していただくことが大変重要です」(大野教授)と話す。

最後に


法医学研究は時代とともに進歩しているが、一方世界中で常に新しい薬毒物が出現しているという。ある薬毒物の分析が可能になったとたん、新しい薬や毒が出てくるなど「いたちごっこ」が続いているのだ。実際、最近でも違法ドラッグによる死者の解剖例が出ているという。そのような状況の中で、大野教授は最後に以下のように今後の決意を語ってくれた。「われわれは常に新しい脅威と向き合いながら研究と実務を続ける必要に迫られています。そのため、これからも現場に直結する法医学的研究と司法解剖などの実務を続けて、われわれが必要とされる社会的課題を解決するために尽力したいと考えています」。

(文:ブランド推進室)

参考文献

1) Takeshi Haseba, Kouji Kameyama, Keiko Mashimo, and Youkichi Ohno. Dose-Dependent Change in Elimination Kinetics of Ethanol due to Shift of Dominant Metabolizing Enzyme from ADH 1 (Class I) to ADH 3 (Class III) in Mouse. Int J Hepatol. 2012; 2012: 408190.
2) 大嶋俊二、長谷場健 日常生活におけるアルコール代謝動態 精神科,24(5):501-507,2014
3) Keiko Hirakawa, Kaoru Koike, Kyoko Uekusa, Makoto Nihira, Kohtaro Yuta, Youkichi Ohno. Experimental estimation of postmortem interval using multivariate analysis of proton NMR metabolomic data. Legal Medicine 11. 2009. S282–S285.

(この記事は2014年4月取材時点の情報です)


日本医科大学法医学

大野曜吉 おおの ・ ようきち

日本医科大学大学院教授(法医学教室)
日本医科大学大学院医学研究科社会医学系医学分野担当
1978年東北大学医学部卒業。1982年同大学院医学研究科博士課程社会医学系法医学卒業。1981年から日本学術振興会大学院博士課程特別研究員、東北大学助手、琉球大学助手、琉球大学助教授、日本大学医学部助教授を経て1992年から日本医科大学主任教授(法医学教室)同大学院医学研究科社会医学系法医学分野担当。東京都監察医務院非常勤監察医、早稲田大学法学部非常勤講師、早稲田大学大学院法務研究科非常勤講師、専修大学大学院法務研究科客員教授を兼任。2008年から中国山西医科大学客座教授、2011年から中国浙江警察学院名誉教授。日本法医学会監事、日本賠償科学会理事、日本法中毒学会理事。

 

こちらの記事は「意気健康 09夏号」の研究室レポートに掲載されたものです。